小説を読むのに苦労する。戯曲を読むのはもっと骨が折れる。筆者の個人的な悩みなのかもれないが、文字を読むとき、それがどのような人物が発した声なのかを想像できなければページを進めることができない。なので、小説の場合は、その声を発している人物の断りなしにカギカッコが続く文章、つまり会話文の連続できまって手を止められてしまう。戯曲の場合は、発言者には人物の名前が付記されているものの、小説における地の文、つまり人物の背格好や来歴を説明する情報がほとんど抜けているので、セリフのなかに弁別性を探さなければならない。
戯曲におけるセリフは、通常は俳優が読み上げ実際に「声」に出されること、つまり上演が前提にされている。俳優の身体に弁別性が保証されているぶん、戯曲のセリフは、役者たちがおかれている空間をイメージさせる「ト書き」に助力する言葉であふれている。小説を読むときの困難、単一の文字のなかに個別の「声」を探す苦労は、戯曲を読むときには反転し、所与のものとされた「声」の弁別性を会話文のなかで組み直す苦労となって現れる。
いま、「通常は」と断りを入れた。筆者がこれから評する戯曲がこれに当てはまらないからだ。『演劇計画Ⅱ』に提出された松原俊太郎、山本健介による二つの戯曲は、本企画のコンセプトに従い「上演を前提としない戯曲」として制作された。このような創作実践は、声の弁別性を担保する「俳優の身体」を疑うものとなる。
山本健介『私たちとは別の五億円世界』から見ていこう。本作には、全国民に五億円が振り込まれることを知らされた世界のなかで浮上する、ある夫婦関係のディスコミュニケーションと、その妻とある男の不倫関係を描いている。本作においては「五億円」を初めとして、「もぐら」や「食卓塩」もまた彼ら彼女らのコミュニケーションに参加する話者である。おそらくこの書き振り自体は、戯曲においては特異なものではない。理由は先述したような、上演に伴なう俳優の身体の受肉に因る。
戯曲において会話文は、いかなる非現実的なものが発するものとして書いても、それに俳優の身体が受肉されることが保証されている。しかし本作には夫役として登場する人物が「ツルハシ」として表記され、それが彼の名前として呼ばれていることがわかる。これによって本作では各発話者に冠された普通名詞は、直ちに発話者当人の固有名である可能性が含意されている。しかし本稿は「上演を前提としない戯曲」として描かれている。これによって、「もぐら」や「食卓塩」の発話は、文字通りそれとして読まれるべきか、人物の名前であると再解釈されるべきか、読解の可能性が宙吊りにされている。
しかし筆者にとって、本作はむしろ「上演可能性のしぶとさ」をパフォーマンスするものとして読めた。先述の「もぐら」「食卓塩」はもちろんのこと、戯曲に書かれたいかなる荒唐無稽も、俳優の身体が露出するとき、あるいは観客がそれを演劇だとみなしたとき、書かれたものは身体の後景の「見立て」としておかれてしまう。「外部人」や「透明」といったほぼ概念としか扱いようのない、イメージ未然の普通名詞は、俳優は固有名と称することができ、ト書きに記された非現実的な光景ですらも、身体表象あるいはセリフの内実によって表現できてしまう。演劇あるいはそれを演劇とみなす眼差しは、それを容易く可能にしてしまう。
一抹の不安がよぎる。この企画における、「上演不可能な戯曲」ではなく「上演を前提としない戯曲」を書けという命題は、「上演不可能な戯曲など存在しない」を暗に含意したものだったのではないか。ならば、戯曲はそもそも、原理的に上演と無関係のものなのではないか。平倉圭がオープンラボのディスカッションで指摘したように、『私たちとは別の五億円世界』において、それが「五億円が振り込まれる」現象の構造的内実へ接近せず、人間関係の描写に終始していることは、無意識であれ、これを暴いてしまっている。上演において、言語の内実は身体の後景へとおかれる。本作における人物(発話者)と「五億円」の無関係さは、上演と戯曲の原理的な無関係さを追認しているかのようだ。
このような不安は、冒頭に述べた難を超えて、「戯曲を書くことを必然化できるか」という問いを呼び出す。そして、これをまともに自覚して書かれたのが松原俊太郎による『カオラマ』だろう。
冒頭から「作者1」と「作者2」による「戯曲を書くことの必然化」をめぐる議論に始まる本作は、以降登場する発話者たちもまたこの問いを繰り返す。上演を前提としない戯曲は、どのように書き始められるのか。「作者1」「作者2」の論争は以下のように締めくくられる。
作者1 現在進行中のお話をそのまま捕獲し、血抜きし、血を返すんだ。
作者2 どうやって?
作者1 耳をすませば。
作者2 聞こえないね。
作者1 私には聞こえる。
作者2 聞こえない。
作者1 そういうものだ。
作者2 これは実話であり、事実であり、真実である?
作者1 これは生きているものたちの記録である。
この問い自体が倒錯したものであることはいうまでもない。両者の議論のなかでも触れられるように、戯曲とは通常、上演のために書かれるものだ。本来上演に携わる者が読むこのテクストは、「誰がどのように読むのか」という俳優への指示が自己言及的な問いへ転化することはあっても、テクストの来歴自体を懐疑するような複雑な問いは稀だろう。この直後、本作はト書きにて透明な箱の形状を説明し、その中に二本の丸太が転がっていることを描く。
以降、本作は丸太である「女1」「女2」が箱のなかに至るまでの来歴について推察する会話劇が描かれ、ト書きはおそらく「箱」の機能であるアナウンス、照明の明滅にほとんどが割かれることとなる。「箱」には丸太たちの会話も移動の軌跡も記録されていると説明があるように、セリフもまた「記録」の一部であるのだろう。本作は、ト書きに押し上げられた何者かによる「記録を止めてください」という懇願によって唐突に打ち切られる。
本作はまるで、再現不可能な上演の記録としてあるかのように書かれている。「丸太」や「女」といったセリフに冠された便宜的な普通名詞は、「箱」あるいは「作者」が観測・記録したものとして現れている。そして、「作者」が二人現れているように、この観測・記録が書き出される契機すらも受動的であるかのように装われている。つまり本作は、戯曲と上演の前後関係を逆転させることで、「これから行われる上演のために書かれるもの」ではなく、「かつて行われた上演を記録したもの」として書かれている。
戯曲はそもそも、原理的に上演と無関係のものなのではないか。続く問いは、「戯曲を書くことを必然化できるか」であった。ならば、戯曲を「かつて行われた上演」を転写したものとして書く本作において、答えは逆向きに提起されている。書き留めることのできる上演とは何か。本作の「記録」が始まる契機となった、先の引用部を思い出されたい。それは、「声」だ。
両作は、普通名詞の発語という点で共通した特徴をもつ。声は、それ自体が特定の身体と分かち難く結びついた音響である。書かれた文字を「見る」ものでなく「詠む」ものとすることから「声」は聞こえ始め、話者(俳優)の身体という固有性が立ち上がる。しかし「上演を前提としない戯曲」である両作は、俳優の身体を自明視してはいけない。二つの戯曲は、「身体なき声」として提出されている。
両作による普通名詞の発語は、「身体なき声」である戯曲が、「見る」と「詠む」という二つの態度によってテクストの解釈をどのように変質しうるかを試している。どのように文字を声に出して「詠む」ことによって普通名詞は固有名詞へと置き換わり(『私たちとは別の五億円世界』)、声として書かれた文字を「見る」に留めることで固有名詞は普通名詞へと置き換えられる(『カオラマ』)。『カオラマ』において「箱」が、丸太が転がった軌跡をも記録していたことは、本作が「見る」に留まる痕跡であろうとしたからだ。
今や、不安はより拡大されている。戯曲と上演は原理的に無関係なものなのかもしれない。テクストにおける、「見る」の領分と「詠む」の領分の混同。解釈される事実が、この混同によって、話者の弁別性と共に揺るがされる。国文学者の兵藤裕己は『太平記<よみ>の可能性』において、まさにこの論題を扱っている。兵頭は、数多くの語り手たちによって詠まれてきた太平記が、その講釈によって本文をどのように読み替えられてきたのかを検証する。この分析によって兵頭は、実に数多くの「語り手」たちの存在を指し示し、彼らの語りによってあり得たであろう太平記の受容論を試みる。
本稿にとって興味深いのは、兵藤がいくつかの箇所で繰り返している、「詠む」ことがテクストにもたらす二つの変質である。一つ、「語り手と語られる人物とがだぶってくる」こと。兵頭はこれを「日本の語り芸の伝統である」と述べる。二つ、これによって「本文には痕跡すらみえない裏話が、文字どおり「見てきたように」講釈される」こと。兵頭は、例えば楠正成の謎めいた戦死をその「大義」を見てきたように詠むことで、語り手が彼の後裔を僭称していた可能性を示唆する。
語りが、人称と事実の騙りを伴う。『カオラマ』の終盤にあたって、「記録を止めてください」という懇願がカギカッコなしで書かれ、もはやト書きなのか人物の発語なのか判別がつかないのは、この事態を受け止めたためだろう。原理的には、ト書きやセリフの区別なく、私たちは戯曲の全文を語る(騙る)ことが可能だからだ。「詠む」ことは、引用符をなし崩しにしてしまう。
上演、つまり俳優の存在を前提としない二つの戯曲は、「身体なき声」を描いた。そのような両作の読解を通し、戯曲と上演とが「見る」と「詠む」の混同によって、互いの形を変えてしまうことを確認した。「見る」ものであるト書きを声に出して「詠む」こともできる。そして、音声に引用符を施すことはできない。
しかし、このような両作の試みを振り返ると興味深い論点が浮かび上がる。「見る」と「詠む」の領分を記すものとして引用符があり、音声がこれを扱えないのであれば、「俳優の身体」は声に引用符を与える存在として定義されうるのではないか。
私たちは、声が固有性をもった身体と人格から発されたものであることを、あまりに自明視している。音声−身体−人格の、単線的な連関を前提とすることで、私たちは「声」を個の単位として比喩的に扱いうる。だが、その「声」がもとより多重化された騙りに塗れているのならば、話は別だろう。引用符を失い、人称や虚実がないまぜになった「声」のプールに、仮初めの引用符を与えるものとして身体があり、切り取られた解釈の指向性として「人格」が見出される……。このような想定は、集団演劇はおろか、単独の演者による語り芸、ひいては日常における音声の聴取のあり方に深い省察をもたらす。
「見る」領分が音声によって「詠む」に侵され、音声に付された身体が「詠む」に引用符を置きなおし、新たな「見る」領分を作る。筆者が小説や戯曲を読むときに感じる苦労は、引用符が浮遊しうる不安に端を発するようだ。そして、批評もまた引用符に塗れた「声」であることは忘れてはならない。今日、トークイベントや動画撮影によって、かつてなく語る(騙る)身体を見られることとなった批評家たちの対談。ときにその場に立ち会いながら、筆者は今後、ここに浮遊する引用符を幻視するのだろう。
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黒嵜想
1988年生まれ。批評家。音声論を中心的な主題とし、多岐に渡る評論活動を展開している。活動弁士・片岡一郎氏による無声映画説明会「シアター13」企画のほか、声優論『仮声のマスク』(『アーギュメンツ』連載)、Vtuber論を『ユリイカ』2018年7月号(青土社)に寄稿。『アーギュメンツ#2』では編集長を、『アーギュメンツ#3』では仲山ひふみとの共同編集を務めた。