『私たちとは別の五億円世界』第一稿を書き上げて(山本健介)

2017年11月20日

 とにかく「上演を前提にしない」ということが重要だなあと思いながら書いてました。というのも、油断すると人は、上演してしまう。

『一人の人間がこのなにもない空間を歩いて横切る。もう一人の人間がそれを見つめる。演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ』

 と、ちょっと昔に、すでにこういわれてしまっているのだから、わりと何を書いても結構上演できてしまうんではないか。
 この第一稿を、最初はいわいる通常の脚本形式で書こうとしたけれど、どうも書いててよくないなあと思ったのは、上演する光景が頭に浮かんだり、具体的な舞台装置の配置とか、劇場の都合、俳優の都合(この俳優を使うんだからこうしたい、とか)、今この公演をうつために自分の劇団が何を目的とするか、今回考えてみたい題材やら命題みたいな……邪念と言うんでしょうか。逆に言えば、普段自分の書く脚本の言葉が、そうした邪心みたいなものに支えられていたことにびっくりもしています。
 いや、何も「上演できなくさせてやろう」みたいな事ではない。でもせっかく、自分が「責任をもって上演をせねばならぬ。そのためにテキストを書かねばならぬ」という状況から解放されるのだから、とにかく、そこを楽しまないといけない。
 なので、そこは重点的に、自分がそうなるように書きました。
 ただもちろん、「一人で楽しく書いた文章」と「戯曲」の線引きや、そこに対する批判はあるだろうなとは思ったり。単なる楽しく書いた文章なら、ツイッターでも十分なはずで、そこを意地張って「戯曲」と言い張る時に、「以下、これから書くのはあらすじなのだが、これは戯曲である。」というト書きを書きまして。
 この一点だけを担保にして、まず書いてみたのか今回です。逆に言えば、こういうのが一つでもあれば、テキストは戯曲になってもいいんじゃないかなと思うし、こういうギリギリの意地張りがあるかどうかが、戯曲を戯曲たらしめる何かかなとも思っていますが、いかがでしょうか。

山本健介

山本健介『私たちとは別の五億円世界』(第一稿)