【ラボレポート】KAC S/F Lab. オープンラボvol.3「現実と時間」(松葉祥一)

2017年11月16日

まず、入不二基義さん(哲学者)によるレクチャー「現実性と潜在性」が1時間にわたって行われた(参照:入不二基義「現実性と潜在性」、『現代思想』、2017年12月臨時増刊号)。話は入不二さんが小学校低学年のときにほぼ同時に経験した二つの別れ、すなわち引っ越しによる友だちとの離別と、親戚との死別から始まる。入不二少年がこの二つはどう違うのかと大人に尋ねると、引っ越した友だちには会うことができるから死別とは違うという返事が返ってきた。しかし少年はこの答えに納得できなかった。水木しげるファンの少年は、可能性としては死者とも会うことができるはずだと考えたのである。
さらに大人に聞けば、死者との再会はまったく可能性がないのに対して、引っ越した友人の場合は再会できる潜在的な可能性はつねにあるから違うのだという返事が返ってきただろう。しかし、と今や大人になった入不二さんは反論する。両者とも可能性と呼ばれているが、ここで潜在的な可能性と呼ばれているものの方には、現実性が入り込んでいる。つまり「潜在的なものはどこまでいっても現実的」であり、その意味で純粋な可能性と区別されるべきである。さもないと、「すべては現実的である」という意味での「いちばん外側で働く現実」がとらえられなくなってしまう。
実は、これはアリストテレス以来の哲学的伝統に挑戦する大胆な主張なのだが、その分析はここではおいておこう。「演劇計画Ⅱ」にとって重要なのは、この可能性と潜在性の区別が、フィクションについて新たな問いを投げかけることだ。実際、ディスカッションの最後に入不二さんは、フィクションの役割を次のようにとらえていた。すべてが現実的であるとき、私たちはそれが現実であることを知ることはできない。人間は、現実を認識するためにフィクションを作る必要があるのではないか、と。だとすると、そこでのフィクションは、現実と結びついた潜在的なものではなく、純粋に可能的なものでなければならないことになるだろう。しかし、とくに演劇の場合、現実とフィクションが複雑に錯綜する。そこに純粋な可能性はありうるのか。あるとすれば、それはどのように提示できるのか。こうした問いである。

休憩の後、公開された松原さんと山本さんの第一稿について、入不二さんから2時間半にわたって質問と提言が行われ、それにもとづいてディスカッションが行われた。まず入不二さんから二人の戯曲が似ているという第一印象が述べられた。第一に、ある種の歴史性を設定していること。松原さんの場合は敗戦後、山本さんの場合は震災後という設定である。第二に、松原さんの場合は死ぬ前と死んだ後とその中間のどちらともつかない時間、山本さんの場合は川向こうとこちら側とその中間地点、という三つの区域を生きる存在が設定されている点。第三に、身体性が前景にあらわれている点。そしてそれは暴力性とつながって家-身体-暴力という軸を形成している。松原さんの場合の壊れる身体や分裂する身体、山本さん場合のDV。このような共通性は、世代的な理由によるものだろうか、あるいは生きているのか死んでいるのかわからないような現状を打破するための暴力として要請されているのだろうか。第四の共通点は、子どもが一定の役割を果たしていることである。「到来しない未来」が共通テーマだということで子どもが登場するのかもしれない。松原さんの場合は子どもが一つの未来だが、山本さんの場合は、死んだ子どもが予め失われた未来として登場する一方で相続という形で未来が姿を見せる。これが、先の家-身体-暴力というラインとは異なるラインとして登場している。
再度の休憩を挟み、入不二さんから第二稿に向けた具体的な提言が行われた。松原さんの場合、シシュポス的な無限反復と同時に、永遠の一時停止が描かれている。「到来しない未来」というテーマをふまえたとき、最後に顔が見つかったという終わり方、男と顔=女が一体化するという終わり方は居心地が悪い。終わらせない終わり方の方がいいのではないかという提案があった。
山本さんには、明らかに資本主義システムが全体の枠組みとなっているが、5億円が配布されるという設定とうまくつながっていないのではないかという指摘があった。また、そもそも資本主義はつねに到来しない未来を前提にしたシステムであるはず。あちら側とこちら側を断絶すると当時につなぐという展開にしたほうが、到来しない未来として一貫するのではないだろうか。
ほかにも、松原さんの「カオラマ」というタイトルの由来や、山本さんの脚本の「私たち」の指示対象の変化、声と顔の問題などについての指摘、入不二さんが実践されているレスリングと空手の比較など、数多くの興味深い話題があったことを記しておきたい。

松葉祥一

1955年大阪生まれ。同志社大学およびパリ第8大学の大学院で哲学を学ぶ。現在、同志社大学嘱託講師。メルロ=ポンティの現象学的身体論を基盤にして、民主主義や戦争について研究。著書に『哲学的なものと政治的なもの』(青土社、2010)、『哲学者たちの戦争』(法政大学出版、近刊)等。訳書にデリダ『触覚』(共訳、青土社、2006)、ランシエール『民主主義への憎悪』(インスクリプト、2008)等。