【ラボレポート】KAC S/F Lab. オープンラボvol.1 「相互作用」vol.2「計画と構想 ―山本健介」(松葉祥一)

2017年6月18日

オープンラボ vol.1(6/16)

蔵本さんによる同期現象についての解説の後、同期現象が演劇にとってどのような意味をもちうるかという問いかけから議論が始まった。アリストテレス以来、模倣を意味する「ミメーシス」は、演劇を含む芸術の本質だった。プラトンが、真理から遠ざかるものとしてミメーシスを退けたのに対して、アリストテレスは、それが描き出す可能的世界が観客に驚きやカタルシスをもたらすがゆえにミメーシスを評価した。また、折口信夫によれば「能」は「態」の略字であり、本来「物まね」を意味していたという。このミメーシスが同期行動の一種だとすれば、同期は演劇にとって本質的な要素だと言えるのではないか[註1]。

その後、二人の脚本家からもフロアの皆さんからも、人間集団にどこまで同期行動が見られるのかという点に質問が集中した。ミレニアム・ブリッジの例に見られるような「自然」な同期行動から、共感(シンパシー)、マスゲームに至るまで、意志が介入する程度は異なるとしても、人間集団に広く同期行動が見られることは明らかである。確かに、意志的要因が大きく(高次に)なればなるほど、自然科学で説明できる範囲は狭まるように思える。しかし、これらを同じ同期現象と見ることによって、その基盤にある現象を理解することができるのではないか。それが非線形科学の目指したところであろう。演劇においても、現実と舞台、演出家と俳優、俳優と観客など、さまざまな同期が見出される。演劇は、この同期という人間の基本的行動特性を明らかにすると同時に、そこから逸脱する可能性を探るための手がかりになるだろう。
ブレヒトがミメーシスを異化するために「語り」を導入したことはよく知られている[註2]。前回のキックオフイベントで述べたように、演劇の政治的役割の一つを「われわれと彼ら」という共同性からの離脱に置くとすれば、この演劇におけるミメーシスと異化作用というテーマは、私にとって今後検討すべき課題となるだろう。


[註1]もちろん現代においてはミメーシスだけが演劇の機能ではない。しかし、やはりそれが演劇の重要な要素であることは否定できないだろう。ミメーシスと演劇について、対談中に言及したのは次の文献である。アリストテレス『詩学』朴一功訳、『アリストテレス全集』18、岩波書店、2017年。ラクー=ラバルト『近代人の模倣』大西雅一郎訳、みすず書房、 2003。
[註2]次を参照。ベンヤミン「叙事演劇とは何か」、『ベンヤミン・コレクション<1>近代の意味』、浅井 健二郎・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、1995年。

オープンラボ vol.2(6/17)

まず山本さんが主宰するジエン社の舞台のビデオを拝見し、山本さんご自身のこれまでの活動を紹介していただいた後、次の二点を指摘させていただいた。第一に平田オリザさんにインスパイアされたという同時多発の会話について。ビデオであるがゆえに聞きとれなかったのは残念だが、おそらく演劇でしか実践できない表現の方法として興味深い[註3]。第二に、現代口語演劇を実践する一方で、日常会話とは異なる詩的言語、違和感のある台詞を挿入することについて。現在、書き言葉と話し言葉の垣根が低くなってきているように見えるが、両者には明確な差異がある。異化作用を持ち込むためにも、引用などによる書き言葉の導入は面白い試みである。
その後、山本さんから、今回の演劇計画では、上演を前提としない「戯曲」を書くことが求められているが、これまで上演を前提とした「脚本」を中心に書いてきたので、書き方に戸惑っているという質問があった。山本さんの考える「戯曲」と「脚本」の違いについてお尋ねするなかで、山本さんが脚本家兼演出家として芝居を構造化していくプロセスが少しずつ明らかになっていった。その結果、今回の演劇計画でも、ト書きによって細かく指示をするよりも、演出家による解釈の余地を残しつつ、しかしつねに両者の差異を比較検討しながら書いていけばよいだろうという結論に達した。

対談中に念頭に置いていたのが、ミメーシス(会話)とディエゲーシス(叙述)の対立である。前日の話題に結びつければ、リアリズム演劇がミメーシスを重視するのに対して、叙事的演劇が語りを対置したと言える。この点で山本さんが、発話する主体が自らの一貫性をほとんど放棄したイェリネクに言及されたことは興味深い。それはミメーシス(一人称)とディエゲーシス(三人称)の攪乱とも言えるからである。山本さんの完成作品のなかで、どのように扱われるのか注目したい。

[註3]複数のテクストが、同期しつつ並存する書物の例としてあげたのがデリダの『弔鐘』である。次の部分訳がある。デリダ「Glas 弔鐘」鵜飼哲訳、『批評空間』、1997年10月、1998年1/7/10月、1998年10月、1999年1/7/10月、2000年1/4月、2001年10/12月、2002年3/7月。しかし、これも書き言葉である以上、単線的なテクスト同期であり、複数の話し言葉が同期しうるのは演劇だけであろう。

松葉祥一

1955年大阪生まれ。同志社大学およびパリ第8大学の大学院で哲学を学ぶ。現在、同志社大学嘱託講師。メルロ=ポンティの現象学的身体論を基盤にして、民主主義や戦争について研究。著書に『哲学的なものと政治的なもの』(青土社、2010)、『哲学者たちの戦争』(法政大学出版、近刊)等。訳書にデリダ『触覚』(共訳、青土社、2006)、ランシエール『民主主義への憎悪』(インスクリプト、2008)等。