2018年9月25日19時~21時、京都芸術文化センター2階大広間において、「演劇計画II」の第6回オープンラボ「創作と批評」が開かれた。まずゲストの大森望さん(翻訳家・書評家)と平倉圭さん(芸術学・横浜国立大学)が、先日公開された戯曲第二稿にコメントを加え、休憩後、委嘱劇作家二人を交えて議論がかわされた。当日のコメントとディスカッションを、ゲストから事前に作者に送られたメモの内容を加味して、再構成したい。
大森さんのコメント
大森さんのコメントは、「SF戯曲というジャンルはあるか」という問いかけから始まった。確かにSFを題材にした戯曲や、SF小説やコミックをもとにした演劇、映画は多数あるが、SF戯曲というジャンルは聞かない。今回の二つの戯曲は、一般的にはSFとしては読まれないだろうが、ここではSFの戯曲として読んでみたい。
山本健介さんの『私たちとは別の五億円世界』は、SFとして読むと、文明の崩壊を描く一種の終末ものとして読むことができる。通常、終末(破滅)は、戦争や災害がもたらす欠乏によって生じるが、この5億円世界では、それとは逆に、過剰によって勤労意欲が失われ、電力が止まる、公共交通機関がストップするなどの終末SF的光景が現れることになる。この逆転の構造が面白さのひとつだろう。昨年放送された野﨑まど脚本のTVアニメ「正解するカド」は、エイリアンがもたらした技術(無限エネルギー、重力制御など)が万人に富をもたらし、それによって文明が危機に瀕する物語だが、全世界の人々の口座に5億円が振り込まれるという設定も、それとよく似ている。またこの作品は、価値とは何かをめぐる、文明批評的な経済SFとしても読める。それが、夫婦の会話に象徴される個々の人間ドラマとつながり、世界の物語と個人の物語がダイレクトに重なるところにこの作品の特徴がある。
ただ疑問は残る。後半のしゃべる食卓塩やモグラ、「私は5億円です」という台詞は、SFの世界では受け入れてもらえないだろう。SFでは、論理的な手続きを経て、観念がガジェット化される。たしかに演劇空間ではすべてが許されるのではあるが。
松原俊太郎さんの『カオラマ』は、箱の中の2本の丸太が登場人物だという設定を、不条理劇や寓話劇としてではなく、人間がなんらかの手段(必ずしも科学技術とはかぎらない)で文字どおり丸太化されているのだと解釈するのが、SF的な読み方ということになる。この作品にそういう読みを適用することはかなり困難に思えるが、なぜ自分たちが丸太になったのか、自分たちを丸太として存在させる「システム」とはどういうものなのか、こうした謎に対話や転がってみること(実験)を通じて論理的に迫ってゆく構造(女1と女2の会話はきわめて論理的で、状況とのミスマッチが笑いを誘う)は、登場人物が世界の秘密を探るタイプのSFに特徴的なものである。また「丸太の回転数と明るさが比例する」などのディテールがSFらしさを補強している。さらに冒頭に作者1と作者2を登場させたうえで、システムの上位存在である神に、「あなたは登場人物としてすでにここに現れています」と言わせることで、SF的な世界の謎とメタシアター構造が重なり、リアリティの水準が保たれている。
不条理な設定にもかかわらず、この理屈っぽさをさまざまなレベルで押し通した結果、SF戯曲と呼べる作品になっていると思う。ただ、「S/F──到来しない未来」という今回の委嘱のテーマとどこまで関連しているかについては疑問が残るが。
平倉圭さんのコメント
平倉圭さんは、まず松原さんの『カオラマ』について、冒頭の作者1・2の会話が途切れ、「箱が置かれています」という地の声にぞっとしたという。それは、上演を前提としない戯曲という問いを引き受けた松原さんが、上演を前提とせずに、いかに「登場人物」という奇妙な人格に存在根拠を与えるかという試みであろう。作中に描かれる透明な箱が、劇場の代わりに与えられた存在のフレームであり、箱の上面に記録される文字列が、上演なき戯曲であり、箱と登場人物は、上演も身体も欠いたまま、互いに互いの存在を根拠づけるというふうに。
また、上演しないということは身体を欠くことであり、身体を欠けば比喩が文字通りに物体化することになるというのが本作のひとつの洞察であろう。そのとき比喩としての731部隊の「マルタ」や、木に吊された「奇妙な果実」が、現実の暴力と短絡する場が、文字の側からあらわれる。おそらくカオラマというタイトルは、この身体なき暴力空間に、界面としてのカオが現れるのはいつかという問いだと推測する。
ただ、ディテールでわからないことがある。一つは、丸太の運動の軌跡はどこに記録されるのか。箱の上面ではなく床なのか、そのときの床と箱の関係は、本作の論理ではどのように考えられるのか。もう一つは、翻訳調の言い回し、例えば「そうだそうだそうだ!」や、女性風の語尾、例えば「〜のよ」「〜わ」が、なぜ使われるのかという点である。そうした表現の機能は何だろうか。
平倉さんは、山本さんの『私たちとは別の五億円世界』についても、読むのがとてもつらかったという感想から始めた。それは、全員に5億円が振り込まれれば当然ハイパーインフレになるはずだといった社会構造に関する思考が停止され、目の前の狭い人間関係に意識が集中し、つねに謝り、過剰におもんばかり、攻撃さえするという設定が、いまの日本の社会構造にきわめて近いからではないか。登場人物たちは、5億円の振込を徹底して世間話として、狭い社会に効果をおよぼすことがらとしてのみ語り、大きな構造への反省を一貫して欠いている。そのなかで、目の前の他者の気分を害さないことへの意識が突出し、とにかく謝るという人間関係が生み出されていることに、現在の日本で生きることの苦しさの「うつし」を強く感じる。それはいわば「私たちと別ではない思考停止世界」である。
そこでの5億円は、「人柄」、「私」、「仏性」、つまりは物質に与えられうる魂であると同時に、宝くじに象徴されるような、現世から脱出するための贈与でもある。その意味で、5億円は交換と恩寵の二重性をもった記号なのであろう。死ぬことで他者に贈与される「人の形をした物」に、5億円という額がつけられることによって、分割・支払い・交換可能になるという構想にリアリティを感じる。
作者に聞きたいのは、この苦しさからの離脱回路が、世界の神話的光景(向こう側の爆発)と、個と個のあいだのミニマルな信頼のようなもの(光)として、演劇的に表象されることの意味は何かということである。そのとき、たとえば照明とはどのような役割を果たすのだろうか。そこに働いている演劇的論理はどのようなものか。この問いは、演劇とは何か、観客とは何かという問いにつながる。
ディスカッション
ディスカッションは、主に二つのテーマをめぐって進行した。
第一のテーマは、「上演を前提としない戯曲」という企画者からの注文あるいは挑発に対してどのように応えるかという、これまでのオープンラボでも繰り返し問われてきた問いである。今回この問いに対する委嘱劇作家2人の対応の違いが際だった。
松原さんは、戯曲が上演されないことに不満が残るという。それは、最終的に声にならないこと、身体化されないことへの不満であると同時に、上演されないのだとするとなぜ読まれにくい戯曲形式で書かなければならないのかという不満である。それにもかかわらずこの課題が課せられたのは、戯曲とは何かを考えさせようという意図があるからだろう(その通りであることを、企画者の一人が明らかにしている。谷竜一「「到来しない未来」の戯曲を創作する」、『新潮』、2018年9月)。だからこそ、このテーマを突きつめて書き、そのことを共有しなければこの戯曲は成立しないと考えたという。山本さんの方は、上演台本と戯曲の違いについて悩んだが、最終的に今回の戯曲も何らかの形で上演することを考えたという。戯曲は稽古場を通過すると強くなる。実際に、松原さんの『カオラマ』を読み合わせしてみたところ、途中から面白くなったという。
第二のテーマは、こうした戯曲のメタフィクション性についてである。ゲストから、2つの戯曲が、神や作者など、演劇空間の上位構造との関係を強く意識させることが指摘された。大森さんはそれが超越的な神の視点ではないと指摘する。SFにおける神が、いつか科学によって到達できるような神であるのと同じように。平倉さんは、それを戯曲の自己言及性と関係づけた。このメタフィクション性のおかげで、「私は梅の木です」といったメタファーが現実化することが許される。現実とメタファーが、神や作者といったメタレベルによって同時に支えられるからである。そこにこそ演劇の特権性があるともいえる。演劇には、無理な論理を通すために、世界の法則や現実の書き換えを行うことができるのである。ただ、何でもできるがゆえに、何をやっても驚かれないという罠があるのだが。
二人のゲストの読みはとても鋭く、刺激的だった。来年1月に発表される予定の最終稿はこれまでとは違う形式で公表され、また、公表より前に『カオラマ』についての「展示」が企画中だという。今回のコメントやディスカッションが、委嘱劇作家たちにどのような刺激を与えるのか、期待したい。
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松葉祥一
1955年大阪生まれ。同志社大学およびパリ第8大学の大学院で哲学を学ぶ。現在、同志社大学嘱託講師。メルロ=ポンティの現象学的身体論を基盤にして、民主主義や戦争について研究。著書に『哲学的なものと政治的なもの』(青土社、2010)、『哲学者たちの戦争』(法政大学出版、近刊)等。訳書にデリダ『触覚』(共訳、青土社、2006)、ランシエール『民主主義への憎悪』(インスクリプト、2008)等。