【ラボレポート】KAC S/F Lab. オープンラボvol.4「計画と構想 ―松原俊太郎」(松葉祥一)

2017年12月16日

オープンラボの第5回は、委嘱作家の松原俊太郎さんが、小説家の滝口悠生さんを対話者として迎え、11月に公開された松原さんの戯曲「カオラマ」の第一稿をめぐって、「虚構・記述・創作」をテーマに語りあった。

まず松原さんから、「上演を前提としない戯曲」を書くという今回の依頼に応えることの難しさが語られた。それはたんに、上演がまだ具体的には決まってない戯曲を書くことなのか、それとも、そもそも上演しないことを前提にした戯曲を書くことなのか。いずれにせよそれは、上演台本を書くのとは違う作業のはずである。ただ、松原さん自身は、これまでも台本というかたちでは書いてこなかったので、今回の戯曲もそれほど書き方に変わりはなかった。しかし、本当にこれでいいのかという問いが最後まで残ったという。これに対して滝口さんから、確かに上演を前提としない戯曲という指示は倒錯しているが、上演を前提としないからこそできることがあるのではないかという指摘があった。例えば、実際にはとても上演できそうもない舞台設定など、上演を前提にしないからこそ可能な戯曲がありうるのではないかというわけである。
その上で、どのように書くかについて話題が移った。滝口さんの場合、最初にプロットがあるわけではなく、「見通し」のようなものがあるだけだという。『ジミヘン』(滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』、新潮社、2015年)の場合は、イメージが先にあった。これが「見通し」になる。「見通し」と方法つまり語り方が結びついたとき、語り手が勝手に語り始める。滝口さんは、演劇の場合、語り手はどうなるのかと松原さんに投げかけた。例えばト書きは誰が語るのか。『カオラマ』のト書きは、登場人物例えば医者が見た世界を語っているのか、作者が語っているのか。これに対して、松原さんは、とくに語り手について意識をすることはないと応えた。ト書きの場合も、誰が誰に語りかけているのか不明確である。もちろん戯曲の場合、最終的に、観客に語りかけるのだが、語り手や語り方は一つではない。ただ言えるのは、書き手と語り手の距離が必要だということ。また語り手はつねに一人であり、モノローグであるということ。その点で小説とは異なる。

続けて話題は、語り方に移った。滝口さんは、自分の経験したことに近いことは書くけれど、少しずらして書くという。例えば、自分の経験したことと何駅か、何年かずらして書かないと、鈍重になって、進まなくなる。その意味で、松原さんの言う書き手と語り手のあいだに距離が必要だということに同意する。また、いったん書き始めると、止まったり、書き直したりはするけれども、迷いなく進む。それを滝口さんは、「構えができると大丈夫だ」と表現された。例えば、最近の『高架線』(『群像』で発表後、講談社、2017年)の場合も、350 枚とこれまでで最も長かったが、「構え」ができていたので、問題はなかった。途中で悩んでも、ちょっと離れてみると「まあいいや」となることがある。もちろん書き直しもバサッと切ることもあるが。
さらに滝口さんは、作品の終わり方について、他の人の作品で納得のいく終わり方がないと述べた。アッバス・キアロスタミ監督の『ライク・サムワン・イン・ラブ』(2012)は、ラストがいいなと思うほとんど唯一の作品だという。書きすぎはいやだし、終わりっぽい終わり方はいや。滝口さん自身、大団円のようなベタな終わり方をすることもあるが、たいていの場合、勝手に終わるという。私が終わらせたのではないという感覚が大事で、これまであまりラストで悩んだことはない、と。
私たち読者にとっては、創作家たちの舞台裏をのぞくことができて、興味深い対話だった。松原さんの第一稿に対する感想や第二稿に向けた提言については、突っ込んだ議論にはならなかったが、これは創作家同士の対話としては当然かもしれない。ただ、この対話が第二稿にどのような化学変化をもたらすのかが興味深い。

松葉祥一

1955年大阪生まれ。同志社大学およびパリ第8大学の大学院で哲学を学ぶ。現在、同志社大学嘱託講師。メルロ=ポンティの現象学的身体論を基盤にして、民主主義や戦争について研究。著書に『哲学的なものと政治的なもの』(青土社、2010)、『哲学者たちの戦争』(法政大学出版、近刊)等。訳書にデリダ『触覚』(共訳、青土社、2006)、ランシエール『民主主義への憎悪』(インスクリプト、2008)等。