【戯曲第一稿に寄せて】第一稿の感想(松葉祥一)

2018年5月1日

キックオフ以来の「演劇計画Ⅱ」の伴走者として、第一稿について感想を述べさせていただきたい。

松原さんも、山本さんも異口同音に、「上演を前提としない戯曲」という委嘱に当惑したと述べている。第一稿提出後のテクスト(松原俊太郎「『カオラマ』第一稿について」、2017年11月10日。山本健介「『私たちとは別の五億円世界』第一稿を書き上げて」、2017年11月20日)でも、揃ってこの当惑が主題になっている。
私はこの困惑を理解できなかった。二人とも、関わり方は異なるとはいえ特定の劇団と関わりがあるのだから、いずれこの劇団で上演することを念頭に置いて書けばよいのではないかと思ったのだ。しかし、二人の話をうかがっているうちに、それほど簡単ではないことがわかった。それは、上演を前提にする場合は演出上の指示を書き込む必要があるとか、逆に特定の劇団での上演を前提にしない場合は演出の幅をもたす必要があるといった技術的なことではない。むしろ松原さんが言うように「声」になることを前提にしていないという自由さが、そもそも戯曲とは何かという根本的な問いを引き起こすからだ。山本さんの「以下、これから書くのはあらすじなのだが、これは戯曲である」という宣言も、この問いを振り払おうという気持ちのあらわれのように思える。
ただ、今回は「上演しないことを前提にした」戯曲の委嘱ではない。委嘱者は、完成した作品(第一稿を含む)をクリエイティヴ・コモンズにすると宣言しており、むしろ他劇団による上演を促したいと考えているようだ。その意味では、「いずれ誰かが上演することを前提にした」作品が求められていると考えられる。だとすれば、「上演を前提としない」という指示にこだわる必要はないように思うのだが、どうだろう。ただ、こうした当惑も委嘱側の計略だとすれば、ひっかかってあげるのも心優しいやり方かもしれない。

『カオラマ』は、やはり松原さんの脚本による「正面に気をつけろ」(2018年2~3月「地点」公演)の余韻の中で読むとき、多くのことを考えさせられる。後者は、第一次世界大戦中の脱走兵を主人公としたブレヒトの未完の戯曲『ファッツァー』の翻案であり、霊たちが「やってきた者たち」として戦争と自らの死について語る作品である。彼らは、「生きていても死んでいても同じことだという状態」、「支配するものと支配されるものとの関係」からの離脱を、声として呼びかける。『カオラマ』においても、声による呼びかけが主役だ。『カオラマ』が違うのは、顔の役割が大きいことである。もちろん顔も語る。E・レヴィナスという哲学者は、顔は何よりも「殺すな」と語ると言う。声が究極的には「内心の声」であり、顔は他人からの倫理的な呼びかけである。だとすれば、顔を見つけることからしか話は始まらないのか。それとも、顔からの呼びかけはつねに「到来しない未来」あるいは「到来すべき未来」にとどまるのか。結末はそうしたことを考えさせる。
山本さんの戯曲は、全員に5億円が振り込まれるという設定で、(沈黙を含め)饒舌体とも呼べる台詞回しによって展開していく。一見したところ突拍子もない設定に思えるが、入不二さんが言うように、現実化しうる可能性(潜在性)よりも、現実化しえない可能性にこそフィクションの力があるとすれば、5億円のベーシックインカムという設定は強力かもしれない。しかし、全員に5億円が振り込まれることになると労働意欲が低下するという展開には無理があると思う。当然通貨価値が下がると誰もが予想するからであり、多くの人が仕事に賃金以外の価値を見出しているからである。山本さんは、この間、資本主義や貨幣経済にこだわってこられたようだ (ジエン社第12回公演『物の所有を学ぶ庭』、2018年3月)。ベーシックインカムに関する議論を参照されると別の展開がありうるかもしれないと思う。

以上、勝手な感想を申し上げたが、伴走者からのエールだと思ってお許し願いたい。


松葉祥一
1955年大阪生まれ。同志社大学およびパリ第8大学の大学院で哲学を学ぶ。現在、同志社大学嘱託講師。メルロ=ポンティの現象学的身体論を基盤にして、民主主義や戦争について研究。著書に『哲学的なものと政治的なもの』(青土社、2010)、『哲学者たちの戦争』(法政大学出版、近刊)等。訳書にデリダ『触覚』(共訳、青土社、2006)、ランシエール『民主主義への憎悪』(インスクリプト、2008)等。