【戯曲第一稿に寄せて】「未来を扱う芸術形式と現実化しない作品について」(三原聡一郎)

2018年6月5日

現在、私は日本の都市郊外に家族3人つつがなく住んでいる。広義にビジュアルアートの分野で活動し、科学技術を意識的に応用した制作を行っている。なかでもよく関わるメディアアートという表現分野において、未来というテーマが扱われることは多いと感じている。ちょうど3月11日まで「未来の再創造」というテーマ展への参加したばかりだった。

テクノロジストなアーティストの未来像と聞くと何を思い浮かべるだろうか?先端的なユートピア、もしくはディストピアがかつての預言者を彷彿とさせて好まれそうだが、現代に生きる芸術家の自然な立場があるように思える。近代以降のヴィジュアルアートの世界では、その名の通り「未来派」という芸術運動が高らかに機械時代の美しさを唱えて以降、実験工房、E.A.T.などの分野横断的な環境や、そしてインターネット以降のオープンカルチャーが表現の世界に浸透していった。時間尺度を含めて、未来を扱う芸術と切り離すことの出来ない作品の現実化について書き連ねていきたい。

私は制作において未来よりもむしろ今を強く意識し、多くの作品にて設置環境をリアルタイムセンシングする機能を実装している。芸術は他でもなく体験の方法であると考え、「いまここ」の感覚を可能な限り高い解像度で共有することに重きを置いている。現代において未来予測は亀甲やタロットからではなく、刻々と過ぎる現在のデータを積み重ねる量と精度に大きく影響する。これについて天気予報からよく一緒に購入されている商品までアルゴリズムの結果として接することが多いが、その基になるデータやプロセスに触れる機会は少ない。この生の速度感や量感が科学技術の発達した現代における想像力のきっかけの一つだろう。

このような視点から、未来を考えるきっかけに個人的に意識していたことを直感的に検索してみた。やはり少子高齢化と我が国の状況が最も気になる。国連が2年おきに更新する世界人口予測福島民報からアクセスを始めた。2017年時点の世界人口は75.5億人。2100年に100億を越える予測だが、増加率は現に減少していることから22世紀以降については今後の出生率に大きく依存すると記述されている。日本の人口推計によると、2018年4月1日の推計で1億2653万人。少子高齢化する日本は既に一つの未来であり現在進行形の実験場だろう。春先に京都近美で行われた「高齢社会における文化芸術の可能性」というフォーラムを聴講し、先週は「未来の公共と個人」をテーマにするディスカションに不妊治療や都市計画に携わる専門家と共にアーティストとして参加した。芸術という解の無いイメージが社会のために風通しの良い場所にどんどん出て行けることは気持ちが良い。

リンクを辿り、キーワードを抽出し、予測変換の連続によりポップなイラスト付きのエネルギー史にたどり着いた。そうそうこれを探していたんだ!と思ってしまうような。蒸気機関以前まではテクノロジーは効率により刷新されてきたが、以後は目的に応じたパラレルな活用が続いている。特に人間と永い付き合いになる可能性の技術は核であると感じる。2011年以降、チェルノブイリ、ツヴェンデンフドルフなど世界のアトミックサイトを訪ねゆく中、自国に存在する福島浜通りには2013年より年一程度訪れて先例の無い現場の日常を体感しようと努めている。2018年4月9日に常磐線小高駅前に柳美里さんの書店フルハウスがオープンした。次回、立ち寄ろうと思っている。この地の日常に文化が戻るプロセスを目撃するために。

検索の旅は続く。2016年、この研究が前述した少子高齢化と核文化へのアプリケーションとして頭をよぎる。クマムシと呼ばれる生命体を用いた実験が既に実証されている。このかわいらしい緩歩動物はいくつかの驚異的な環境耐性能力を持つが、高い放射線耐性を司る遺伝子をヒト培養細胞に組み込み、耐性効果が確認されている。75億人もいれば、その先を想像し、更に試してみたい人間が現れても不思議ではないだろう。

インターネット普及以降、オープン指向のハッキングカルチャーと併せて、メディアテクノロジーの入口は今、非専門家にどんどん開放されている。先に述べた、リアルタイムセンシングデバイズの実装について、私は電子工学やコンピュータサイエンスなどを学んだ専門家ではなく、友人やコミュニティの力を借り、恐れず!に自作の見様見まねで行っている。表現者向けのエレクトロニクスならarduino, プログラミングならproccesingから始めるのが手頃だろう。バイオロジーの実践はキッチンでも出来るが、もしヒトの細胞まで扱いたいならSymbioticAというバイオアートラボが非専門家に対しては世界で最も幅広いアクセスを提供している。便利なティップスから危険な試みまでネット上に情報もあふれている。ものづくりも可能なハッカースペースは日本でも珍しくなくコミュニティは近い距離にあるように思う。現実可能性がありきたりな未来らしいイメージを超えている今、法律や倫理を超えて予期される違和感を体験的に顕在化する役割は芸術が最も速いかもしれない。しかしその好奇心が思わぬかたちで一個人としての1アーティストに返ってくることもある。

2001年同時多発テロ事件の半年後に起こった炭そ菌事件は、自殺した一人の被疑者が2010年に犯人と断定され終結をしたが、その過程で大規模な捜査が行われた。2004年にドクメンタ他、主要な現代美術の場で活動を続けるアートコレクティブ Critical Art Ensembleの主催者であるSteve Kurtsが妻の死に嫌疑をかけられ逮捕された。現場である自宅にはマッサチューセッツ現代美術館の作品制作のために、遺伝子操作を行うためのラボが設置されていた。芸術の素材として扱っていた大腸菌はもちろん病原性ではないが、故にバイオテロ実験の検証モデル生物だったのだ。米軍のバッカス作戦との差は?とこの記事は問いかける。

2000年以降、世界と未来について芸術家=非専門家によりリアリティを持った議論が加速したと感じるが、これからの芸術のモチベーションや可能性はいかなるものなのだろうか?未来予測に基づいた変化が共有可能な社会での芸術応用が考えられる一方で、かつてのデュシャンやケージ、そしてブルックだけでなく現在進行形で活動するアーティスト誰もが格闘しているように、これまで芸術が行ってきた芸術自体のアップデート(再定義)について自分なりに考えていることを述べてみようと思う。

何故か今、似たような匂いを感じるのだ。それは芸術の起点を制作者の意図から捉えるような感覚ではなく、生物としての人間の持つ知覚感受性と世界のバランスにフォーカスする感覚だ。ポストヒューマン、人新世、思弁的実在論などいくつかのキーワードとしてこの感覚が語られている様な気もする。先に極論である私見を述べると、私は他者とわかりあえないと思っている。それを悲しいことでも何でもなくただ当たり前に異なる存在だからと認識している。故に私は非言語的コミュニケーションにも関わらず芸術を通じて得られる知覚解像度と伝達速度の動的な変化に驚き、その可能性の無限性を信じている。

一つのきっかけは、東日本大震災以降に人間が知覚できないエネルギーである放射線を作品<  鈴>の根幹的な要素に据え作品化したことによると推測している。エネルギーの本質を考えていくと、一個人からの視点はほぼ消え、生物として進化過程や太陽の存在、質量保存の法則、最終的には宇宙の起源にたどり着く。ガイガーミューラ計数管で構成されたセンサーが、展示会場の環境放射線を常に計測しているこの作品は、ドームに切り閉じられた密閉空間内で感知した瞬間に風鈴のような音を鳴らす。小さな鈴が古来、天災や疫病の原因と信じられていた不可知の邪悪さを捉え払うといういわれを知った時に、科学技術が発達した今、放射線をこの音と共に聞きたいと思ったのだ。このエネルギーにそれでも善悪の感覚が発生したとしたら、その邪悪さも善さも、それを感じている人間自体に内在しているとしか思えないのだ。

人間という尺度を改めて考え直し、芸術が既に人間のみがもつ概念にも関わらず、芸術の対象から人間を自由にする試みを思索している。人間を含んだ環境要素すべてを等価に扱うことや、芸術作品の主体を他の生命に設定し、人間文化を演じてくれる役を想像をしている。

<想像上の修辞法>と名付けたこの作品では、ぴよぴよと鳴く人工物のさえずりをきっかけに、人間を含め、環境全体でユーモラスに疑える場を創出することを目的としている(検証不能)。意思決定を人間から考えていった果てに、人間〜人間を含んだ環境の対話の可能性をバードコールと呼ばれるシンプルな音具から想像していった。穴を空けた木の枝にネジをこすり回す摩擦音を、演奏することであたかも鳥のさえずりに響かせられるこの道具と人間の意思を切り離した。モータとランダムな回転プログラムにより自動化させた意地悪な装置である。離島の山奥から、ホワイトキューブまで、その時々の環境を取り込む。耳慣れたさえずりは環境の自然に溶け込むが、ふとした瞬間に人工物として認識した瞬間に、環境に向けた解像度が高まる。このような緊張が共有できないものかと考えている。これは知的なふりをした下らない冗談だと!

また、苔に君が代を歌わせたいと夢見ている。宇宙の秩序を表す<コスモス>と名付けた作品ではコケや土壌を用いた微生物燃料電池という技術による発電を扱っている。地球上に数十億年生き長らえてきた、微生物や苔の発電エネルギーを基に、更に歌詞において生存長寿の比喩対象にこの歌を歌われることで、この歌をめぐるタイムスケールと近代性を政治的意図をも超えて倒錯的に解体できると確信している。この作品はプロトタイプとして発表されているが、完全な実現について2つの問題を抱えている。微生物燃料電池のエネルギー効率の問題は時間が解決するだろうが、計算で少なくとも目指すべき解は現在でも導き出せる。一方で苔が歌うということの実装は、真に解の無い問いへの解答である。歌うことは本来、自由かつ高度な感情表現であるが故に、歌わされること、そして歌自体について人間は特に敏感であるべきだと思うし、それを我々に気づかせてくれる知性の外側がいてもおかしくない時代だと思っている。

これらの一連の作品は一個人から近代(日本)を超克する意図で始め、その先に進む上で、外すべきフレームは「人間」しか残されていないと感じている。その上で二つの戯曲を読んで興味を持ったのは、人間が中心であろう演劇において、未来に向けてどのような試みが可能だろうか?ということだ。未来の触覚的身体の行方と、その身体から思うゆえに在るうる存在や如何に?ハイブリッドな感覚としてのかつて人間だった意識は思い出せるのだろうか?深く表情が読み込まれてきた顔や表情はその時どういう意味を持つのだろうか?特に笑顔の持つ意味は深い。ヴィジュアルアートだとモナリザの微笑みを想起する人は多いだろう。これまで笑顔は感情の表象として描かれてきたが、現代においては課せられ更に評価される記号の側面を持つように感じる。クリスチャン・メラーの映像作品はその居心地の悪さを感じる。松原さんのカオラマが描く表情を次稿に楽しみにしている。

 

更に現在、身体と称されているものが更に曖昧になり、必須でなくなるかもしれないが、自我は何らかのかたちで残るだろう。それを構成する意識や思考のなかで最も人間らしいものとを今はまだうまく理由を説明できないが「信じること」だと思っている。

脱線するが、かつて長崎県の生月島にある理由で向かったことがある。カクレキリシタンは存在し続いていることを知ったことがきっかけだった。オロショという口伝儀式の録音を監修した立教大の皆川達男先生の研究から僕はのめり込んだのだが、命がけの隠遁を経て明治維新で訪れた信仰の自由を前に、元のキリスト教に戻らず、身体化した信仰それ自体が選ばれたことに衝撃を受けたのである。

この感覚は、神様や皆さんにはわからないかもしれないが。それでも私たちは一生懸命毎 日を生きているのである。(私たちとは別の五億円世界 p.8)

山本さんのパラグラフにふらっと出てきた「神様」の単語は設定された2011年だとしても、偶然性や説明不可能性のメタファと読んだ。そこに感謝や畏怖を伴わせる宗教的な側面はいまはおいておいて、この単語とそして皆さんが指し示すことは気になる。科学技術が無制限に適用され、幸福の追求が効率や論理で展開される今、人間を理屈ではなく、自己を含め他者を尊敬する内部機構を保持することは人間らしさではないかと感じている。登場人物の雰囲気と発する言葉の質感を次のアップデートで意識的に精読したいと感じた。

宗教なるものを様々にデコードしていく面白い試みは、空飛ぶスパゲッティモンスター教のような真摯なものがこれまで一番心に残っているが、ちょうどこの原稿を書いているタイミングでアーティストユニット、エキソニモ作品「ゴットを、信じる方法。」という再制作展示として久しぶりに見る機会を得た。展開されたバリエーションの中でも、2つの拝む掌を想起させる配置のマウスが生む光学的干渉のポインタ軌跡にすら、ゴッ「ド」を覚えるか?と、問われる状況に、人間は何かを信じたい生き物なのだと実感する。

芸術作品は、その鑑賞者の中で想起されることで簡潔するならば、それでいいのではないか?

このお話をもらって、このようなことをぐるぐる考えながら、それでも私は日本の都市郊外に家族3人つつがなく住んでいる。

三原聡一郎

世界に対して開かれたシステムを芸術として提示しており、音、泡、放射線、虹、微生物、苔、電子、気流、土などの物質や現象の、芸術への読みかえを試みている。2011年より、テクノロジーと社会の関係性を考察するために空白をテーマにしたプロジェクトを国内外で展開中。滞在制作として北極圏から熱帯雨林、軍事境界からバイオアートラボまで、芸術の中心から極限環境に至るまで、これまでに計8カ国10箇所を渡ってきた。

近年の主な個展に「空白に満ちた場所」(クンストラウム・クロイツベルク/ベタニエン,ドイツ,2013/京都芸術センター、2016)、グループ展に「科学と芸術の素」(アルス・エレクトロニカ・センター,オーストリア,2015–16)、「サウンドアート——芸術の方法としての音」(ZKM、ドイツ、2012)など。共著に「触楽入門」(朝日出版社、2016)。その他、アルス・エレクトロニカ、トランスメディアーレ、文化庁メディア芸術祭、などで受賞。また、方法論の確立していない音響彫刻やメディアアート作品の保存修復にも近年携わっている。
http://mhrs.jp/